真人間を目指すためのログ

その日したこと、観たもの、読んだもの等の記録

アニメ Angel Beats! 二回目視聴の感想

思うところあってAngel Beats!を見直した。前に一度見たっきりで、今回は二回目の視聴となる。
初めに見た当時は大変面白く見ていたのだが、最終話でやっぱりこうなるんだなという感想を持ち、マンネリというわけではないが麻枝准のいつもの手法と同じではないかと思いそのまま納得がいくというものではなかったのである。それで今回は……

いやはや評価が難しい。ABは糞アニメとの評判がずっとあるのだが、さすがにそれはないだろう。だが失敗作とも、最高作とも、どれも言い難い。個人的な好き嫌いで評価してみても、嫌いとは言えないがはっきり好きというにはためらわれるものがある。見直してみればABに対しての評価が定まるのではないかと思っての再視聴だったが、逆に評価が難しくなってしまった。

最初から見ることで新たな発見はあった。日向とユイの来世の希望を語るところはやっぱりいいものだったし、ゆりっぺの(記憶というか幻想の)教室シーンは私の記憶から抜け落ちていたがあの場面も好きだ。あと最終話の音無がかなでの心臓の音(つまり自分の)を聞いたことがきっかけとなり記憶を取り戻したという、これも最初は気づかなかったのでなるほどと思った箇所ではある。

 だが、しかし……この作品は特に12話におけるプログラマーは誰なのとかここは一体どういった世界なのかとか、かなでが音無よりも先にあの世界にいたのはどうしてかという謎があって、しかしその答えは本編を考察してもちょっとわからない、はっきりとは確定出来ないところがある。まずそういった設定面のモヤモヤがABを評価する際の難しさになっているという点が一つ。あと今回再視聴した最終話をどう評価するかという点、最後の音無の行動がクズだとかなんだかと叩かれる原因になっているが、私にはそこは共感しかない。それ故に他の可能性はないのか、エンディングはあれが正しかったのかという思いがずっとある。
ここでは創作的な立場からエンディングの可能性を考える。つまり作者の立場から他のあり得たかも知れない展開を考えてみよう。(そんな作品評が有効なのかという点はまあ置いておき、ただ私は特に納得のいかなかった作品に対してどうしてもそういった想像をしてしまうのである)ABエンディングのほかの可能性 音無の希望通りかなでとともにあの世界に残り、迷い込んだ生徒を助けながら楽園としての生をすごす。 音無はかなでとともに来世に希望を託し、二人消滅することを受け入れる 現状アニメに描かれた通り (他にもあるかもしれないが、差し当たり思いつかない)

さて作者の麻枝准であるが、「泣かせ」の名手として有名なのは言うまでもない。(私は元々だーまえのファンではなく、kanonおよびAirはゲームでプレイしたが他の作品は未プレイで、比較しての考察ができないが)であるからにはエンディングで当然最大の泣かせ演出を持ってくる、ということになるはずだ。だからというわけではないが、は物語展開からしても当然却下される。かなでが音無の想いを受け入れ、あの死後の世界でともに暮らすなんて展開になったらさすがになんじゃそりゃというものだろう。当然実現はできない。でははどうだろうか。これなら日向とユイのパターンと同じで、音無とかなでは生まれ変わって出会ったら二人でなにがしたいのとか、一緒に麻婆豆腐が食べたいとか会話する。それでも十分感動的な「泣ける」展開になったはずだ。

さて実際に描かれたを見てみよう。最後かなでは「ありがとう」という言葉を音無に言い続けるのだが、かなでは感謝の言葉は伝えたかったものの音無と同じような異性としての愛情は持っていないように見える。音無は消滅できたのだろうか。それもどうも難しそうに思える。というのは迷い込んだ生徒の助けをするという新しい望みを持ってしまったため、もはや消え去ることができずあの世界に一人留まるしかなくなり、それがアナザーエンディングにつながるというわけだ。(ちなみにそう考えても最終話Cパートとは矛盾しない。あの場面は音無がこの先いつか消滅した後としても問題はないため)音無がAngel playerの作者とする考察もあるが、本編に判断材料が乏しく確定は難しい。どうもあの12話のプログラマーの話は、この先の音無の姿を暗示したものと思えるのである。それ故あの実際に描かれたエンディングは、ただただ残酷で痛ましいものではないかという感想を持ってしまったのだった。

何故フィクション作品が実際に書かれた展開の通りになり、他の展開(他の可能性の実現)に至らなかったのかは特別な理由があるわけではないだろう。当然、物語の展開は作者の意識ひとつでどうにでも変化する。しかしやはりあの本編のプログラマーが気がかりだ。こう考えてはどうだろう、つまり12話で自らをNPCとせざるを得なかったプログラマーの存在が提示された故に、最終的にの展開が必然のものとなり、音無は彼の運命をなぞらざるを得ない。もしの展開になっていたとしたら、12プログラマーの話は本編から浮いてしまい、逸話としても中途半端なものになり何か抜け落ちてしまうような気がしないだろうか。ゆりやSSSのメンバーは12話まであの世界がなんなのかという考察をせず、少し唐突にも思えるが世界の成り立ちが語られるあの話は物語に深さと重量感をもたらすためにも必須だったはずだ。

他少々残念だと思う箇所 かなでの内面が描かれてなく過去の出来事も音無の心臓を受け取ったというだけなので、感情移入が難しい。もっと音無と交流があってもよかったのでは。尺がなかった?  かなでがピアノを奏でる場面が本編にあってもよかった。 ゆりっぺの感情が浄化されるところ、やはり少し唐突では。

それ故にジレンマがあって、私の個人的な感情移入先はやはり音無にあるのだが、しかし物語展開に問題はなく現状描かれたままを受け入れるしかないという結論になりそうである。私にとって Angel Beats! は結局つらい作品である、ということになりそうだ。(さて一夜明けて読み直したが、飽きっぽいので正直もうどうでもよくなってきた。もうこれでこの項を終わる)なにか疑問点や異論が提示されればここでの考察も進むかもしれないが、もはや誰もこんな作品に拘泥していたりはしないだろう。しかし私にとってはずっと引っかかっていた作品ではあり、……(疲れた、やめる。文章が浮かばない)。

さて以上は前置きで、私が好きなのは音無よりも、やはりゆりっぺなのである。ABの何が問題だったかって、ゆりっぺが可愛すぎてつらかったのである。ゆりっぺは陰惨な事件を経験した過去があり、ハルヒと同じENTJ型の性格にもかかわらず(MBTIの性格診断で、キャラクターに対しても適応できるのでなかなか面白い)、本当は妹と弟に優しい姉だったという。好きにならないはずがない。Brave Songを聴いていると魂が溶けそうになる。My Soul,Your Beats!が音無とかなでの歌だったのに対して、これはゆりの歌だったのか。今までちゃんと歌詞を意識したことがなかった、聴いていると泣ける。ゆりっぺこそ真の天使なのでは? しかしABのゲームは中断したようだが、それで正解だろう。モブキャラの過去の話を全員やられてもどうなのというところはあるし、それになによりも音無とゆりっぺのセックスシーンなど描かれたら気が狂いそうになる。いや全年齢対象だからセックスはないんだっけか。私は発売日に予約して買ったのだが、クリア後すぐヤフオクに売ってしまった。しかし付いて来た特典がたしかゆりっぺの風呂タペストリーだったと思ったが、あれだけ取っておけばよかった。ゆりっぺと恋愛がしたい。ゆりっぺのいい匂いをかぎたい。ゆりっぺの未来が幸福で納得のいくものでありますように。以上。終わる。

ハルヒリバイバル(2)

いつものように推敲していないたどたどしい文章だがもう少しハルヒについて書きたい。映画の涼宮ハルヒの消失についてである。当時映画館で一度だけ見て、今回また見直した。いやはや、これは。別世界の長門がとにかく痛ましかった。これは三浦先生が言ったように悲劇ではないか。特にあの鍵がそろうシーン、文芸部にハルヒと古泉が入ってくるシーンは残酷極まりない。なぜって、長門はずっと部室で一人キョンの到来を待っていたのである。それが待ち続けてキョンがやっと来たと思ったら、自分の知らない男と女を連れて来てるんだよ? あれはリア充の闖入ではないか。知らない人間をいきなり連れてくるとかいわゆる陰キャに絶対やってはいけないことじゃないか! それに文芸部の入部用紙を長門に返すシーン、長門はうまく受け取れないんだよ? どんだけ残酷なのかと。更にまだある。長門にワクチンだったかを打ち込むシーン、キョンは敵に相対するように長門の前に出て行くのである! やあやあお出ましだね、って感じで。そして改変した長門にこんなところで何してるんだと訊くのだが、長門は「さんぽ」と答えるのである。実際このときの長門には以前の記憶がないのだろう。それを、キョン、お前……長門にためらいもせずに銃を打ち込もうとするキョン。二重三重の残酷さである。三浦先生のように非日常にのめりこむ超常現象中毒者とも言いたくなってくる。

最初映画館で見たときはやっぱ小説のほうがいいなと思った消失だったが、見直してみたらとにかく長門が異常なかわいさでとにかくつらかったという……それで今まで見ようとはしなかったアニメ長門有希ちゃんの消失を見てみた。まあそれほど悪くはないんじゃないでしょうか。とりあえず1話だけ。

また映画消失の話に戻るけど今後ハルヒの続編が出たとして完結まで消失別世界長門のキャラが出てくることはないだろう。今後長門に感情が芽生えたとして、あそこまで露骨な表現はされない可能性が極めて高いだろう。じゃあ消失の長門はどうなったんだ? 消失はパラレルワールドを否定している。あの長門の存在は一瞬の夢にすぎなかったのだ。しかし、救われない。あのような長門を描いてしまったからにはもう救われねえんだよ。かわいすぎるよ、長門長門有希ちゃんの消失じゃ満足できねえんだよ、ああ、長門……救いてえよ、どうかあの世界の長門が救われますように。と久々にアニメキャラに対するメサコンを発揮してしまったのだった。俺はフィクションに対する感情移入の度合いが低く、架空のキャラクターに対しても一切の同情はない、キャラが煮えようが焼かれようがどうでもいいとか思っていたのだが、そんなことはなかった。長門が逆に俺の感情を取り戻してくれたのである。(まあこれは冗談だが)

ちなみにエンドレスエイトの驚愕を三浦俊彦から送ってもらったことで心理学者の渡辺恒夫氏もハルヒにはまってしまったらしく、どうやら長門萌えのようである。結構なご高齢の方ようだが、ハルヒすげえよ……

あっあと小説になかったラストシーンだが「笑うのをこらえている」という解釈があって当時映画を見たときはもはやシーンを忘れていたのでよくわからなかったが、なるほどね。そうだろう。より正確には「笑みがこみ上げてくるのをこえらえている」というか。

消失聖地のサイゼリヤ北夙川店だが今はもう弊店してしまったが、以前一度行けてよかったと思う。そのときに図書館も行った。当時はそれほど熱心ではなかったので喫茶店とか他の場所は行かなかったんだけど、今年春に神戸に行くことにしたのでハルヒの聖地を廻ってみる予定。喫茶店が移転してしまったのは残念だが。

ハルヒリバイバル

エンドレスエイトの驚愕』三浦俊彦 いやいや噂どおりすごい本で、この本に仕掛けられたループに従い続けて二回ほど通読した。現在は第三版であり売れているようで非常に喜ばしい。おかげで世間でもハルヒリバイバルが来ているように見受けられる。この著作の存在がエンドレスエイトというよりはハルヒという作品そのものの評価を押し上げたのである。

内容についていくつか書きたいことがあるので、あとで書く予定。ちなみに三浦俊彦のことは『多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス』で知っていて、様相論理の本も前に買ったがまだ読み終わっていないので、再挑戦する予定。

個人的にもハルヒリバイバルが来て、アニメを全話と消失を見直してみた。エンドレスエイトもそれなりに楽しめた。どういった見方をしたかというと、各回の演出の違いに注目するという、ベタでメタな見方ではある。三浦先生はエンドレスエイトそのものは見る必要はないとしているが、見て楽しもうとしたらメタ的に演出に注目するしかないのではないか。ちなみにエンドレスエイトIVのクオリティが抜き出ている。と思った。Vの最後の時計の演出もいいが。

ハルヒ小説の思い出についてを若干。アニメ1話が当時話題になり、素人が作ったような映像をいきなり流すという特異な演出に驚き、それから小説を買ってはまってしまったのだった。書店で文庫本を買うとその足でファミレスに入って夜通し読む、ということをしていたのである。思えば私がシリーズ物の小説を夢中になって読んだ経験はあとにも先にもハルヒだけだったのだ。

ハルヒには黙示録的なところがある、というのが当時思った感想だった。「私はここにいる」という言葉が出てきたときには驚いた。何かすごいことを語ろうとしているのではないかと。私にはこの小説は青春SF物語という表面上の見方を超え、何かSpiritualな事象を語ろうとしているかに見えたのである。

しかしその後原作は停滞、続編が全く出なくなってしまった。驚愕の後編が出たときにはすぐ買ったが、もはやハルヒ熱も冷め内容については残念に思ってしまった。それまで作者本人が夢中になって楽しんで書いていたのが、途轍もなく努力して苦しんで書いている様が文章からありありと伺えたのである。内容に触れると閉鎖空間の「神人」がどのキャラをだったか忘れたが手のひらで受け止めるという描写があったと思うが、もはや(谷川流の)内面の衝動は充足してしまい物語を続ける気力はなくなってしまったのだろうかと思ったのだった。

だが「エンドレスエイトの驚愕」はもう一度驚愕を再読する機会を与えてくれたのだった。もはやダンボールにしまったままどこに行ったか探さないと見つからないが、憂鬱から全部読み直す予定である。驚愕に対する評価は変わるだろうか。

ちなみに国会図書館に行く機会があったので『あてずっぽナンバーズ』と最新作の「七不思議オーバータイム」を読んできた。キョン諧謔とユーモアは変わらずにキレキレで、この文章がハルヒの芸術性を押し上げていることを再確認した。とにかく続編が出たことは誠に喜ぶべきことであり、完結までエンドレスエイトの600何十年ほどにはかからないことを祈りながら、続きを待つしかない。

(2019/01/09)

その昔PS2で旧KIDから出ていたノベルゲーを結構やっていたのだがMy Merry May with beと12RIVENのことを思い出していた。My Merry May with beはとにかくお話がつまらなく読み進めるのが苦痛なほどだったがメイビーのほうになったらそこそこは面白くなったが今はもうほとんどといっていいほど内容を忘れている。ただメイビーの舞台である海辺の田舎町の雰囲気は良くてそこが好きだった。あとこの作にはある仕掛けがあるのだがああいったギミックは好きで他に使いたくなる。あとは少しネタバレだが作中であるキャラが死ぬのだがキャラ攻略毎に死ぬのでじじい何回死ぬんだよ(笑)とだんだん笑えてくるのである。思い出せることはそれくらい。だけどほんとに雰囲気とギミックはよい。あとは忘れた。以上。

12RIVENこれはシナリオ途中までのストーリーがめちゃくちゃ面白いのである。少しネタバレすると人がいなくなった?どうして??? 志村クラブってなんぞや?大変ありがたい志村クラブよりの御信託。だが最終シナリオ、あれはなに? 一気に面白さはトーンダウン、もはや残念な思い出しか残らない。ほんとにこの最終シナリオさえうまくいっていれば最高の作品になったはずなのに。ちなみに一枚絵のCG絵も本当にひどいできです。

でこういった自分的に残念な出来の作品があると、どうしても、この作が名作になるにはどうしたらよかったのかとか考えてしまうわけだ。そういった消化できない思いが私のなかで延々と残り続けてしまうわけです。それで今日は悶々していたのだが、やはりこれでは伝わらないな。どうしよう。

いやーやっぱりギミックのある作品って好きで、でもEver17はそんなに評価してなくてそれよりRemember11のほうが好きという人間なのだが、あと小説だと乾くるみの「スリープ」を推している。でもう一回読み直してみるかと思った次第。でそういった小説を書く方法はあるのかとか考えて悶々としているわけです。それで小説の可能性というのはあるのかとか色々考えていた。うーん未消化だがこの話はこれで以上です。

(追記)あと浦賀和宏が好きなのもそこなんだよな。奴は結構いろいろやっている。

(2018/12/30)

それにしてもいつも思っていることがある(おそらく私がいつも思っていることは100通りくらいあるだろう)。主人公がヒロインと一緒に戦って、最終的に高みに昇るような小説はないのか、ということである。別に小説でなくてもいいのだが、ここでいう戦うとは漫画的なものというか、ゲーム的なもので、バトルとかそういうライトノヴェルズ的なものででよろしい。なにか、とても、こう、そんなふうに思うのは、えっとところで私は一応はゲームの女神転生シリーズのファンなのだが、といっても全作ではなく真・女神転生3は特に好きではなくて4・5もやってなくて、一番好きなのはスーパーファミコンで出た真・女神転生Iと真・女神転生II、真・女神転生ifなのであるが、なぜこれがいいのかと言いますと悪魔と善悪とはみたいな抹香臭さではなくて、女神転生シリーズはファミコンナムコから出たデジタルデビル物語女神転生から人間は主人公とヒロインの二人制であり、ゲームとして一緒に戦っていく上で恋愛的な描写は全然ないんだけど、なんかヒロインとともに高まっていくような感じがあるのである。ここはちゃんと論じたい部分ではあるが、まあうまくいえない。のでどう説明したらいいのやら。それでドラクエ5なんかがヒロインのビアンカとか一緒に戦ったりするし、ドラクエ8なんか3DS番でわざわざゼシカルートとか用意したりするし(ちなみに私はゼシカルートいらない派です。ドラクエをギャルゲーにしてどうする)。何がいいたいかと言いますと、まあ単純に一緒に戦っているヒロインと恋愛するような物語はいいよねというようなことなのだが……といっても先に書いた女神転生シリーズに恋愛要素はないように思われているが、でも同じようなものというかもっと精神的なものを感じるというか……あそこらへんの女神転生には人間が神に高まるような感じがあるんだよな。(ちなみにこの人間の神化はCGユングの概念でもあったりするのだが)じゃあソードアートオンラインじゃだめなのかというと全然だめで、私はSAOアンチなのでもちろん他の転生小説とか異世界小説も認めません。女の子にちやほやされたいとか、ハーレムとかの話ではなくて、そうではなく最初に書いたようにヒロイン一人と一緒に戦って恋愛する物語が読みたいんですが……ロマラブ主義者なので仕方がないのですが、こんなこと書いてたら恥ずかしくなってきた。もういいや。

それにしても年末だからかわからんがこんなわけわからん文章でブログ更新してるのは人恋しいからか。ああさびしい、誰かとここに書いたことのようなことについて話して交流したい。それにしても俺はなにかの感想とか何かについて論じるとかここでは全然書かないけど、興味を持って訊かれれば頑張って話そうと思います。でもツイッターツイッターねえ……ツイッターだとこういったことは全然つぶやく気にはなれないんだよな。

それにしてもなんでこんないつも脈絡のない文章なのかというと、もちろんわざとでオートマティスム(自動筆記)で書いているからです。何度も書いてるけど私はシュルレアリスムの影響を受けたので、オートマティスムにはずっと関心を持っているのですが、わざわざこんなことを書いたのはこのブログを読んだ人がこいつはいつも発狂しているのではないかと(実際そうなのだが)思うのではないかと、ちょっと心配になってきた。

(2018/12/29)

昨日ブログを書いた時点でまだ言い足りない感じがしたから続けて今日も書こうと思ったのだが昨日言いたかったことは今日ではもうどうでもいいことになっている。書きたかった内容は覚えていなくてもないが、半分くらいは忘れている。なので昨日とは別な内容について書くというか今日のはただのメモである。

今日は蔦屋書店に行き併設のカッフェで本を読んでいた。一昨日昨日と雪が降ったものの道路の雪はもうだいたい溶けている。母親の車を借りてツタヤまで向かう最中、そういえばずっと読もうと思っていた「隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」を思い出しちょうどそこの蔦屋書店にあったので途中まで読む。内容は思った通りでそうそうこういったベーシックインカムについての本が読みたかったんだよという本だった。自分にとってはそれまでの他のベーシックインカム本があまりしっくりこなかったのだった。本国ではもっと前に出ていたが邦訳されて出たのは2017年らしい。まあメモだからとりあえずこここまででいいや。検索したら図書館にもあったのだがもう休みに入ってる! 借りられない。

あと「なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか―世界的貧困と人権」トマス ポッゲだが図書館になくアマゾン価格が高いので読めそうにない。

どうも書店に行くと憂鬱になってしまい、というのはもう小説が読めなくなってしまった状態なので小説のコーナーを見ると気持ち悪くさえ感じるのである。ためしにノヴァーリスの「夜の讃歌・サイスの弟子たち」を開いたがもはや本当に頭に入って来ないのである! こうした日本語を嚥下できず吐き下すようになってしまったのだ。中原中也詩集も開いてみた。当然無理だ。他にもSFの何かを開いたが理解できそうになかった。
何も今に始まったことではないが、かつては好奇心とロマンを感じたものにもはや同じように接することはできないのだった。
ああまたこんなふうに書くのはどうでもよくなってきた、何が言いたいかというとそんなふうにもう小説というものがつらくなってしまったことを改めて認識したことでつらくなってしまったが森博嗣の「小説家という職業」の存在を知ったので読んでみようかと思ったということだった。あと「集中力はいらない」を明日はまだ開館している隣の図書館にいって借りようかと思う。何も言いたいことが言えていないがこれも明日にはどうでもよくなっているだろう。

(2018/12/28)

はあつら。最悪だったな今年は。まあ夏までは別に悪くはなかったんだがな。まあいいや、なんか書いておこう。

もはや誰が読んでいるかわからないので書かなくてもいいような気がした。残念なことにツイッターやらブログが読めなくなってしまったので、交流がないのがいけない。しかし、精神が悪い。

明日から年末年始にかけて図書館が休みになるようなので本を借りてきた。とりあえず登山家 竹内洋岳の「登山の哲学」を読む。哲学とあるが難しい本では全くない。竹内さんは何年か前にNHKのドキュメントで知って登山家といえばまず竹内さんが思い浮かぶ。そういえばツイッターの自分が知っていた面々は結構スポーツとか嫌いっぽくてオリンピックとか全然興味なさそうだったけど登山は割と興味を持ってる人が多いんじゃないかと前に思った。私も登山だけは興味ありますね。登山は人と競うよりは一人だけの苦行のような面があるからね。

あとなんだっけ、そうだ浦賀和宏だ。浦賀の小説はそれなりに読んで割と好きなんだけどシリーズものは読んでなくて他に読むのがなかったからメフィスト賞の「記憶の果て」と松浦純菜のシリーズを読んだ。で松浦純菜に関したけどこれはひどいなあ。一作目はまだ普通なんだけどあとはなんじゃこりゃ小説ですよ。浦賀のシリーズものでない作品はほぼ読んで浦賀の小説がどんなものかというのはわかっているつもりなんだが、ちょっとね、もっと小説の体裁で書いてほしいというか……残念ながら失敗作ですなこれは。

こうやって読書とかについてまた書けるのもバイクモードが終わったからなんですなあ。バリアチェンジするRPGのボスみたいにモードを替えないと興味を続けていられないんですな。ほんと疲れたよ。

バイクバイクと言っているが俺自身は今も昔も「バイク」に対して憧れはない。何の漫画だっけかシガテラという題名だったと思ったがこの漫画のように(結局これも最後までは読まなかったが)バイクに乗りたい!バイクが欲しい!免許取りたい!といった人間では全くないんですな。なんで峠を攻めるとか全く興味ないし、速く走ることにも興味がない。バイクに憧れて免許を取るような人は教習が楽しいという人もいるようだが自分はそんなことは全くなくて、いいから早く免許くれと思ってました。ただ楽しい移動手段と旅の手段というだけで、それが自分にとっては重要ということですな。
だから乗ってるのはスクーター(250cc)で、しかしスクーターにバイクの楽しさがないのかといわれればそれはまた違うと思っていて、スクーター特に私のマジェスティ4D9型はチューンしたこともあって最高に楽しいですよ。あと色々言いたいが疲れた。

あと色々言いたいことがあったはずだが、そういったことって出していったほうがいいのだろうか。そういった諸々の言いたいことが溜まっていくとストレスになったりするのだろうか。しかしなあ、またツイッターやるとかツイッターはブログのように長文発狂できないので糞です。
しかし何も言わないと考えたり感じたりしたことは忘れて消えていくんだよね。それでいいのか悪いのか……