真人間を目指すためのログ

その日したこと、観たもの、読んだもの等の記録

(2018/04/17)

孤独である。また魂のスピードの低下してしまったことからツイッターでの元FFの人のツイキャスを聴いてしまっていて、ちなみにその人のツイッターも読んでいて、そのキャスの常連の方々の名前は自分のほうは皆知っているのだが、こっちは隠れてキャスをたまに聴いていたから皆を知っているのに皆はもちろん自分のことなんか知らない。キャスがコラボになってしまうと非常につらいものがある。コメント一つ打つのにも勇気がいる。

自分にはツイッターで承認欲求なんて満たせず、もう戻れない。つらい。どうすれば。

そのキャスにはだいたい10人前後の閲覧が常にあるので自分以外にもステルス閲覧のような人はいると思うのだが、コメント一つしないでじっと聴いているのは孤独でつらくならないのだろうか。とくにコラボキャス。というのはずっと疑問だった。(そもそも、ツイッターをやっている人は何故孤独にならないのか自分にはわからない)

透明人間というのが自分の実存の基底にある気がする。まだ読んでないウェルズ読んでみよう。

天使が恋をして人間になるような話を前に書いた。天使は人間の目には見えない。ちなみに映画ベルリン・天使の詩のようなプロットだが、内容は全然違う。そういうと大変ロマンティックに聞こえるが、実際にそんなことをしてしまうとストーカーになってしまうのである。

愚痴のようになってしまったが、そういったことも言うためにこのブログを作ったのだが、消したくなるのであまり書けない。

カズオ・イシグロに興味が出てきて『わたしを離さないで』を読んでいる。まだ1/4くらいだが、たぶん読み通せそう。やはり『忘れられた巨人』に関してアーシュラ・K・ル・グィンがいちゃもんをつけたというファンタジー議論が気になるのだが、日本語で少し経緯が読めるサイトがあったような気がするのだが見つからない。

(2018/04/02)

(一週間前に書き始めた日記です)

図書館で村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』を借りた。印西市千葉ニュータウンが舞台ということで前から興味があったのだが(ニュータウンが好きなので)、最初の数ページを読んだところで閉じた。疲れていると文章がなかなか頭に入ってこない。全く本が読めない人の気持ちというのはこういったものなのかもしれない。また読まずに返してしまいそうだ。

結局またサイゼに行ってしまっている。調子がいいときは数時間ぶっつづけで作業ができるが、さすがに毎日とはいかない。コーヒーを飲みすぎたのか頭が痛い。

ところで地元のサイゼはいつの間にか全面禁煙になっている。前に喫煙席だったところのテーブルの上にはわざわざ但し書きが置いてあって、東京オリンピックに向けて全店禁煙化の一環で今後は禁煙にするとか書いてある。地域によって禁煙率と喫煙率には結構差があるようで、地元のここは禁煙率のほうがずっと高く、夜は禁煙席のほうは人がいっぱいで喫煙席は全然いないという状態だったのだが、それもばらけるようになった。全面禁煙になったことで満員にはならなくなりそれほど気兼ねなくノーパソを打っていられるので、自分としてはよかったと思うが。結局禁煙にするとか喫煙にするかという話は最終的には店側のコストと需要によって決まってしまうような気がする。
ところでサイゼには既にエアカーテンを付けている店舗があったのだが思うが、そこも全面禁煙化にするのだろうか。

 春になったのにどこにも遠出はしていないが、寄り道をしてみた。市内のここはほんの少し小高いだけの山なのだが、気分転換にたまに来たりする。

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(やはり画質が悪い)

毎年この時期になると飛騨高山の生き雛まつりの時期だなと思う。アニメ氷菓最終話のあの行事である。これは一度行っただけなのだが大変によかった。高山にはその後もう一度行ったが、元々観光地だけあって見どころが多い。
我が県には弥彦という一応の観光場所があってたまに弟と行ったりするのだが、弟は弥彦が気に入っているようなので同じような雰囲気でもっと規模の大きい高山に連れて行ってやりたいと思うのだが、四月三日は無理だ。もっとも弟は氷菓を見ている訳ではないので、生き雛まつりには行かなくていいのかもしれないが。

ところでやっぱり高山は遠い。自宅からだと東京と同じくらいの距離がある。結局どの地域から行っても遠いような気がする(そんな場所はこの世にはないが)。そのように思えるのは高山が周りを山に囲まれた秘境のような場所だからかもしれない。前はバイク(当時はPCX150)で朝の五時前に家を出て延々国道20号を北上して午後の三時くらいに着いた。図書館にバイクを止め、喫茶バグパイプに高山の街、高山陣屋に行ったあとはさすがに疲れ切って宿のゲストハウス(ゲストハウス月家というところ。ここが気に入ってしまいその後もう一回泊まっただけだけど定宿みたいになってる)で結局深夜まで爆睡してしまった。それでも次の日の午前にも観光はしたし楽しかったからいいのだが。

あと島根の三江線が三月いっぱいで廃線になってしまい、行ってみたかったがもう無理だった。去年の夏に行っておくべきだったが、もう遅い。今年の夏に廃線あとを辿るしかないようだ。

(2018/03/24)

生活は概ね順調なのでこちらに書くことがほぼ無い。とはいうものの、執筆以外の他のことはしていない。いつだったか映画を毎日見ようと思うとか言って全然見てない。未だに映画一本見るのに集中力が全然続かん。昨日はテレビでトイストーリー3をやっていて2までは見たのに3は見てないのでいい機会だったのだが、集中して見れないと思い見なかった。今に始まったことではないがアニメ30分さえ全然見れない。ちなみに映画館でさよならの朝に約束の花をかざろうは観た。アンチ岡田麿里だけど。

あと断捨離ためにヤフオクに物を出品するとか言ってその日以来まったくしてない。ごめんなさい。あと本も読んでない。図書館で予約しておいて順番が回ってきたから伊坂幸太郎のホワイトラビットを借りたが全然読めない。次の人が予約で待っているだろうしもう返してしまおう。
マルチタスクがマジでできん。ほぼ同時に同じ作業をすること(例えばブラウザで別々のページを開いて見たり)はやってしまうのだが、これは(自分の場合)作業効率が悪いので止めた方がいい。マルチタスクが出来ないというのは自分の場合今日と明日で違う作業をすることができないのである。

今やってることが終わったらまた作業モードをバイクモードに切り替えていきたいところ。もう不要なバイクいじりはしないとは誓ったが家にはまだ疫病神となってしまったジャンクカブが整備されないまま残っている。人生の宿題は早いところ終わらせておかないとである。

とりあえず朝食はだいたい作っている。
これはいつかのデニーズの朝食。ごはんは大盛り無料なのでいつもそうしていると思うのだが、店によって量が違うのかこの日はめちゃくちゃ大盛りで来た。 

f:id:glamaje:20180324202653j:plain目玉焼きをご飯にのせてしょうゆをぶっかけてベーコンとソーセージとともに食べるのだが、このときご飯の上のほうはいったん皿の方に避難させておいた。 f:id:glamaje:20180324202725j:plainこれが自分で作ってもめちゃくちゃうまい。目玉焼きごはんにベーコンとソーセージがあるだけでだいぶ変わる。良コスパである。味噌汁は即席。もう一品サラダがあるとよかった。

しかしデジカメがぶっこわれて以来スマホのカメラで撮っているのだが画質が悪いな。とっととまたカメラ買わないと。

(2018/03/11)

日記を書く間隔が空いているが、私は元気である。だいたいブログやSNSに何も書いていないときは全く元気でないか全く元気であるかなのである。料理もしているとは言えないが、ちゃんとしている。というのは本当に簡単にできるものしか作ってないからなのだが、それでも自分にとっては成長である。ちなみに今日はBLTサンドを作った。野菜は高騰したが、BLTサンドの時間と味のコスパは良い(画像は作ってすぐ食べたかったから撮らなかった)。瞑想もしている。とりあえず毎日順調だ。ただこの状態を持続するのが難しいのはわかっているが……

結構前から自分の興味の範囲を絞っていきたいとは思っている。一人の人間が興味を持てる範囲のキャパシティはどうしてもあると思うから、これは仕方がない。料理の他に畑仕事もやったほうがいいと思っていて、その方は始められるかどうかはわからないが、ある意味現実路線になっているのかもしれない。

料理をすることで人生って変わるんでしょうか (2018/03/04)

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アニメの『美味しんぼ』、ここのところずっとアベマTVで放送しているらしいのですが、私が昔見て覚えている回がありまして、(うろ覚えなのですが)なんでもどこかの子供の両親が共働きかで忙しくて、料理はいつも電子レンジで温めることで済ましていて、山岡士郎が「あの『チン』の音が忘れられない」とのたまった回がありました。ちなみに今はレンジで温めることを「チンする」って言わないらしいです。なんでも今の電子レンジはもう「チン」って音がしないから。(数年前にそんな話を聞きましたが、いつからなのかはわかりません)

私は美味しんぼに見られる、食文化を疎かにする人間は畜生、みたいな考えが好きではなかったのですが(というのは美味しんぼでは如何にも〈上級〉の文化だから)、でも食文化について見直すべきというのは確かにそうだなというか、食文化だけに留まらない家族やライフスタイルの問題とかも含まれてくるのかな、と思います。

前にメインブログに書いたと思うんですが、シェアハウスで一緒だった人に、「衣・食・住をきちんとすると活力が生まれる」と言われました。これは「お前は何もなってないからもっとちゃんとしろ」という意味合いだったと思うんですが、確かにこれは本当にそうだなと思うんですよ。

せっかくネット禁を決意したので、それで生まれた時間でやってみるのがいいのかな。自分で作ったものは逐一写真にとっておくのがいいのかもしれない。そうしている人は結構多いし。 

私はあくまでオーバーに言えばですが、「バイクで人生が変わった」というよくある乗らない人からすれば何言ってんだこいつ的な言葉を実感しているのですが、料理をすることで人生って変わるんでしょうか。

まあ人生が変わっても変わらなくても私はもう少し料理はしたほうがいいだろうというのは確かなので、ずっとやったほうがいいとは思っている状態なのですが、すぐにやりますとは言えないものの、やってみようと思います。

ネット禁をすることにした(2018/03/03)

ツイッターをしていたとき、もう全然楽しくないのに、タイムラインで誰かが投稿してくれるのを待っていることがよくあった(主に人がいない深夜だが)。本当はもうページを閉じて、他の意味のある作業をしたい。だが止めたいと思っているのに、止められないのである。全然楽しくない状態でやっているのだから、依存症とは少し違うのかもしれない。これはあきらかにやばい状態だろう。私はそれを「ゴドー状態」と呼んでいた。(サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』にちなむ。その時はまるで神の到来を待ち望むかのような状態で画面に張り付いていた。だがもちろん、タイムラインにそんなものは来ない)

当時は、このままではツイッターに人生を食い潰されてしまうような感覚があったのである(ここでは書かないが、他にもツイッターには多大なストレスを感じていた)。つぶやきをやめたことでだいぶ楽になったものの、結局は今もツイッター(ウェブ検索からだったり、どこかからTogetterに飛び、そこから入ったりで見てしまう)や他のサイトを見て、時間が潰されることはとても多い。だがそうしたことのすべてがストレスになっているのではないかと思えてきた。

そうして何かのサイトを閲覧してしまうのも、確かに自分にとってそれなりに興味のあるトピックがあるからである。だが記事の内容にもよるが、政治・社会問題にせよ、その他ちょっとしたことにせよ、読んでいて憂鬱になることは多く、それなのになかなかやめることができず、延々と見続けてしまう。私は本当に気持ちの切り替えが下手で、一度はまりこんだらそのことをずっと考えてしまうのである。不快なのに止められないというのはもう病気に近いものがある。

(ちょっと検索したら、こんなページがでてきた。

息抜きスマホ、脳にはストレス やめられない理由はこれ:日経ウーマンオンライン【相磯展子の「目からウロコの仕事ハックnew」】

それにしても、世の中には情報が多すぎるのだ。私は情報のすべてをうまく消化することができない。消化することができないだけでなく、普段からかなりのストレスになってしまっていることに気づいたのである。

もうこんな状態からは脱したい。私は決意した。ネット禁である。今後しばらくネットはアマゾンで物を買うとか、映画の席を予約するするといった用途に限定し、その他は極力使用しないことにしたのである。(といっても、ポルノ用途には使ってしまうと思うが)。そうでもしないともはや、現在の状態からは抜け出すことができないと思ったのだ。

ネットに自分の人生を食い潰されてしまうという危機感は、私にとっては切実なものである。時間を制限して使えばいいのかもしれないが、上に書いたように、一度見てしまうとなかなか抜け出すことができないとなれば、一切を禁じるしか方法はないだろう。
もうやめた、もうーやめた、もーうやめた、もう本当にやめた。あとは知らん。

あとはこれが、できるだけ続くように努力するしかない。そしてもちろん、空いた時間の使い方が一番重要だ。

面倒くさいということについて (2018/03/01)

前回の日記を読み直してみたら意味不明で笑える。そもそも自分を語ることが苦手である。前は人に誤解されたりすることが嫌だったのだが、それも最近は別にいいかと思えてきた。それというのも、何事に対しても「面倒くさい」という感情が先に立ってしまうからだ。非常によくない。

最近は何かをするより、何もしないことのほうが幸せに思えてきた。ぼおっとして何かを考えているのが楽しいのも、加齢のせいかもしれない。縁側で日向ぼっこをしているような、そんな感覚だ。(しかしまだ、お迎えがやって来るのは遠い)

生きるのはコスパが悪いというのは全くその通りに思える。生きていくためには少なくとも食べたり、寝たりしなければいけない。これがなくなり、精神的存在になれたらいいなと思わないでもない。

ツイッターで三大欲求がどうのこうのいうツイートを見たが、人間にとって三大欲求とは何かということはさておき、外から隔離された快適な空間で、なんでも美味しい食事を与えられ、あらゆる好みのタイプの女の子(女というのはもちろん自分の場合)をあてがわれるが、しかし食と性交以外の娯楽はなく、あとできることは眠るだけ、という場所でどのくらいの期間そこにいられるのだろうということを考えた。そんな実験があったら参加してみたいものだが。
(これに知的な娯楽、あらゆる本、映画、ゲーム等が加わるとしたら、どうだろうか。もしかして一生いられてしまうのかもしれない。まあ、どうでもいい空想だが)

まあ要するにすべてが面倒くさいのだが、これに付ける薬はあるのだろうか。

最近よく思うのだが、物事に対して興味を持つにはどうしたらいいのだろう。インターネットには情報があふれているのものの、しかし自分がすでに興味のある範囲を超えて、なかなか知らない物事に興味を持つのは難しい。(というようなことが言われることがあるが、その通りである。)

現代において「アパシー」こそは最大の難敵なのだろう。うつ病とも違い、最近になって注目され始めたアパシーと呼ばれる症状は、ミヒャエル・エンデ『モモ』で「致死的退屈症」と言われたものと同じだろう。アパシーに罹ると生きても死んでもどうでもいい、といった状態にまでなってしまう。モモではこの病にかかるともう治る見込みはないとされているが、これこそ現代において立ち向かわなければならない、最大のものなのである。