しかしいつもこんな適当な文章を書いているとフォーマルな文章を書けなくなってしまうのではないかという懸念がある。割と広範囲に言いたいことがあるのだが小説以外であまり頭を使いたくないので何か書くとなるとどうしても簡単に書けるような内容になってしまう。でもツイッタだと必ず言い足りない感じが残るからそこはまあブログで……まあこんなことはどうでもいいや。
アニメ『フラクタル』についていくつか(ネタバレあります。未視聴で奇特な方はまずフラクタル本編を見てください)
・初めて視聴したときは最初の数話とそれと最後だけ見たせいか、フリュネがどんな存在かということはだいたい把握していた。そのせいで常にフリュネに対して痛ましく、そして欲望のこもった感情で見ていた。それはおそらくネトラレ的な感情に近いものがある。
・フリュネという名前の由来 もちろん紀元前ギリシアのフリュネから取られている
・フリュネの言う「好きは嫌い」
・ネッサは別にいいのだがフリュネは痛ましく、可愛い。全裸で海に飛び込む痛ましさ。
・フリュネといえばこの絵。私はこの群集の一人として見ていたのだろう。
Генрих Семирадский «Фрина на празднике Посейдона в Элевзине» ゲンリフ・セミラドスキー《ポセイドンの祭儀でのフリュネ》(1889)
— ロシアの絵画・美術 (@russianart_jp) March 22, 2018
アカデミズム絵画の巨匠セミラドスキーの代表的な作品。エレウシスでのポセイドンの祭儀にて衣服を脱ぎ捨て海へと入ったというフリュネの逸話が題材。#ロシア絵画 pic.twitter.com/7Hago2aetl
・こんな絵もある。しかし紀元前フリュネのエピソードを踏まえ相当たくみに作っていると思うのだが……
・舞台のモデルはアイルランドのイシュモア島と都市ゴールウェイ。クレインの家のあるところはイシュモア島で有名なほうのモハーの断崖ではないらしい。
・記憶が不確かだが6話くらいに出た街はゴールウェイとは違う場所だっけ。あまりにも都会で電脳都市すぎるしなあ。ダブリンかどこかなのだろうか。まあ年代は32世紀らしいし。
・32世紀!とてつもない年代だ。
・アンテナかなにかで真のフィールドが現れるところは印象深い
・東浩紀とヤマカンの方向性の違い。
・未来少年コナンやナディアをやりたかったヤマカンともっと別のテーマをやりたかったあずまんの違いがあったのだろう。録に調べていないけどそういうことだと思っている。それにしても、
>>東先生「フラクタルの結末に書きたかったことは、近親相姦の反復。クレインはネッサを選んで、また反復する。だが、無論それが通じる訳もなかった」
近親相姦の反復とは! まず一般には受け入れられないテーマだ。もちろん私は興味しかないが。
・あとフリュネの痛ましさはクローンであることにも由来する。それに、最終話に出た日本の女子高生の存在! あれは、ほんとに。痛ましさとそれに自分自身の異様な欲望を見せつけられるのである。
・もちろん私のような人間が一番制作者(あずまん)が意図した通りの作品の見方をしているのである。
・挿入歌「昼の星」最初に聞いたときは妙な曲調だなと思ったが、実際にサビはなんか変な調子だが妙な神秘性がある。あの曲が現代の日本(21世紀)で流行した曲というのも、妙にそそられるものがある。
・最終話の最後の舞台である、花々に囲まれたの宇宙空間。あの場所で日本の女子高生の映像が流れるとか、そしてその女子高生が性被害にあっていて幼児退行しているとかよくああいうの考えるなあと。そして流行曲の昼の星を口ずさむのだ! あの最後の場面の意味に感応した人が私以外にもいて欲しい。
・あと最後の舞台の床のデザインがオープニングのフラクタル模様というのも行き届いた演出
・32世紀のアイルランドと現代日本。フラクタルにアイルランド的神話的なものを見るのは過剰な見方でもないだろう。(という気がする……)
・最終的にシステムが倒れたあとは農業やるしかないっていうエンディング。まあそうなるよなあ
・確かに物語的にちょっとどうなのという展開もあった気がするが、まあいいでしょう。
フラクタルにつて書くべきことはこのくらいかなあ。論文のようなものが書けないのでいつもこんな感想めいたものをぶつ切りにして書く方法で書くのだがこんなんで伝わるのかというのはあるが……