真人間を目指すためのログ

その日したこと、観たもの、読んだもの等の記録

料理をすることで人生って変わるんでしょうか (2018/03/04)

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アニメの『美味しんぼ』、ここのところずっとアベマTVで放送しているらしいのですが、私が昔見て覚えている回がありまして、(うろ覚えなのですが)なんでもどこかの子供の両親が共働きかで忙しくて、料理はいつも電子レンジで温めることで済ましていて、山岡士郎が「あの『チン』の音が忘れられない」とのたまった回がありました。ちなみに今はレンジで温めることを「チンする」って言わないらしいです。なんでも今の電子レンジはもう「チン」って音がしないから。(数年前にそんな話を聞きましたが、いつからなのかはわかりません)

私は美味しんぼに見られる、食文化を疎かにする人間は畜生、みたいな考えが好きではなかったのですが(というのは美味しんぼでは如何にも〈上級〉の文化だから)、でも食文化について見直すべきというのは確かにそうだなというか、食文化だけに留まらない家族やライフスタイルの問題とかも含まれてくるのかな、と思います。

前にメインブログに書いたと思うんですが、シェアハウスで一緒だった人に、「衣・食・住をきちんとすると活力が生まれる」と言われました。これは「お前は何もなってないからもっとちゃんとしろ」という意味合いだったと思うんですが、確かにこれは本当にそうだなと思うんですよ。

せっかくネット禁を決意したので、それで生まれた時間でやってみるのがいいのかな。自分で作ったものは逐一写真にとっておくのがいいのかもしれない。そうしている人は結構多いし。 

私はあくまでオーバーに言えばですが、「バイクで人生が変わった」というよくある乗らない人からすれば何言ってんだこいつ的な言葉を実感しているのですが、料理をすることで人生って変わるんでしょうか。

まあ人生が変わっても変わらなくても私はもう少し料理はしたほうがいいだろうというのは確かなので、ずっとやったほうがいいとは思っている状態なのですが、すぐにやりますとは言えないものの、やってみようと思います。

ネット禁をすることにした(2018/03/03)

ツイッターをしていたとき、もう全然楽しくないのに、タイムラインで誰かが投稿してくれるのを待っていることがよくあった(主に人がいない深夜だが)。本当はもうページを閉じて、他の意味のある作業をしたい。だが止めたいと思っているのに、止められないのである。全然楽しくない状態でやっているのだから、依存症とは少し違うのかもしれない。これはあきらかにやばい状態だろう。私はそれを「ゴドー状態」と呼んでいた。(サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』にちなむ。その時はまるで神の到来を待ち望むかのような状態で画面に張り付いていた。だがもちろん、タイムラインにそんなものは来ない)

当時は、このままではツイッターに人生を食い潰されてしまうような感覚があったのである(ここでは書かないが、他にもツイッターには多大なストレスを感じていた)。つぶやきをやめたことでだいぶ楽になったものの、結局は今もツイッター(ウェブ検索からだったり、どこかからTogetterに飛び、そこから入ったりで見てしまう)や他のサイトを見て、時間が潰されることはとても多い。だがそうしたことのすべてがストレスになっているのではないかと思えてきた。

そうして何かのサイトを閲覧してしまうのも、確かに自分にとってそれなりに興味のあるトピックがあるからである。だが記事の内容にもよるが、政治・社会問題にせよ、その他ちょっとしたことにせよ、読んでいて憂鬱になることは多く、それなのになかなかやめることができず、延々と見続けてしまう。私は本当に気持ちの切り替えが下手で、一度はまりこんだらそのことをずっと考えてしまうのである。不快なのに止められないというのはもう病気に近いものがある。

(ちょっと検索したら、こんなページがでてきた。

息抜きスマホ、脳にはストレス やめられない理由はこれ:日経ウーマンオンライン【相磯展子の「目からウロコの仕事ハックnew」】

それにしても、世の中には情報が多すぎるのだ。私は情報のすべてをうまく消化することができない。消化することができないだけでなく、普段からかなりのストレスになってしまっていることに気づいたのである。

もうこんな状態からは脱したい。私は決意した。ネット禁である。今後しばらくネットはアマゾンで物を買うとか、映画の席を予約するするといった用途に限定し、その他は極力使用しないことにしたのである。(といっても、ポルノ用途には使ってしまうと思うが)。そうでもしないともはや、現在の状態からは抜け出すことができないと思ったのだ。

ネットに自分の人生を食い潰されてしまうという危機感は、私にとっては切実なものである。時間を制限して使えばいいのかもしれないが、上に書いたように、一度見てしまうとなかなか抜け出すことができないとなれば、一切を禁じるしか方法はないだろう。
もうやめた、もうーやめた、もーうやめた、もう本当にやめた。あとは知らん。

あとはこれが、できるだけ続くように努力するしかない。そしてもちろん、空いた時間の使い方が一番重要だ。

面倒くさいということについて (2018/03/01)

前回の日記を読み直してみたら意味不明で笑える。そもそも自分を語ることが苦手である。前は人に誤解されたりすることが嫌だったのだが、それも最近は別にいいかと思えてきた。それというのも、何事に対しても「面倒くさい」という感情が先に立ってしまうからだ。非常によくない。

最近は何かをするより、何もしないことのほうが幸せに思えてきた。ぼおっとして何かを考えているのが楽しいのも、加齢のせいかもしれない。縁側で日向ぼっこをしているような、そんな感覚だ。(しかしまだ、お迎えがやって来るのは遠い)

生きるのはコスパが悪いというのは全くその通りに思える。生きていくためには少なくとも食べたり、寝たりしなければいけない。これがなくなり、精神的存在になれたらいいなと思わないでもない。

ツイッターで三大欲求がどうのこうのいうツイートを見たが、人間にとって三大欲求とは何かということはさておき、外から隔離された快適な空間で、なんでも美味しい食事を与えられ、あらゆる好みのタイプの女の子(女というのはもちろん自分の場合)をあてがわれるが、しかし食と性交以外の娯楽はなく、あとできることは眠るだけ、という場所でどのくらいの期間そこにいられるのだろうということを考えた。そんな実験があったら参加してみたいものだが。
(これに知的な娯楽、あらゆる本、映画、ゲーム等が加わるとしたら、どうだろうか。もしかして一生いられてしまうのかもしれない。まあ、どうでもいい空想だが)

まあ要するにすべてが面倒くさいのだが、これに付ける薬はあるのだろうか。

最近よく思うのだが、物事に対して興味を持つにはどうしたらいいのだろう。インターネットには情報があふれているのものの、しかし自分がすでに興味のある範囲を超えて、なかなか知らない物事に興味を持つのは難しい。(というようなことが言われることがあるが、その通りである。)

現代において「アパシー」こそは最大の難敵なのだろう。うつ病とも違い、最近になって注目され始めたアパシーと呼ばれる症状は、ミヒャエル・エンデ『モモ』で「致死的退屈症」と言われたものと同じだろう。アパシーに罹ると生きても死んでもどうでもいい、といった状態にまでなってしまう。モモではこの病にかかるともう治る見込みはないとされているが、これこそ現代において立ち向かわなければならない、最大のものなのである。 

日記を書くことについて (2018/02/28)

さて、毎日日記を書くと言っておきながらすでに毎日書いていない。そもそも何故毎日日記を書こうかと思ったのかというとこのブログのタイトル通りで、日記を書くことで生活を律することができ、また自分の普段の考えもまとめることができるのではと思ったからなのだが、当然のようにうまくいかない。そもそも日記を書いて公開することは理にかなっていることなのだろうか。公開することで読んでいただける人がいるのならそれなりの内容のあるものを、と思ってしまうので毎日意味内容のあることを書かなければいけないというプレッシャー(というほどでもないが)を感じるのと、あと思ったのは常に自分について書かなければいけないということで、これがなかなかつらい。このブログでは自己開陳ではなく自己鍛錬を目的にしているのではあるが、何かしらを書くことで本来の目的から外れ無限の語りに陥ってしまいかねない。それに文章を書くことについて、あまり言いたくないのだが私は元々創作作業をしていたのだが、本来ならばその方に集中したい、だが日記ブログを書いてしまうと溜めこんでいる「イキリ」を使い、放出してしまうのである。そうすればもう他で文章を書く気になどはならず、これが大変によくない。ツイッターが自分に合わなかったのも他に色々原因があるが、そんなことも一因である。それにしても日記を書くことは自体は重要だと思うのだが、しかし非公開の私秘的な日記を書いていればいいかというと、これはこれで意味があるのかどうか疑わしい。というのは誰にも公開しない日記では「○月○日 ○○を読む 瞑想 した」くらいの事しか書かず、そんな日記では書いているのもどうでもいいと思えてきてやはり毎日続かなかったのである。なので日記を公開することでそれなりに長い文章を書き、書くことで自分の生活を見直す、という趣向だったのだがやはりそうそうに失敗しそうである。既に迷走しているがとりあえず今日はそれなりの長さになったのでもう終わりにしたいのと、今後は毎日更新をやめて不定期更新としたい。

眠すぎる! 睡眠について (2018/02/25)

さて、昨日のエントリを書き、その通り瞑想をしたあと突然眠気が襲ってきて、眠ってしまった。寝たのはコメリ(田舎の象徴)で買ったこれの上である。 

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これは二千円しなかったのだが、これが感触がふかふかして気持ちがいい。さすがに眠いのはどうしようもない。居間にこんなものを敷いているのが悪いのかもしれないが。

一日の平均睡眠時間はどれくらいだろう。ロングスリーパーショートスリーパーの人がいるが、私は平均的な8時間くらいだろうか。ショートスリーパーの人がうらやましい。ロングスリーパーの人は生きるのが大変そうだなと思う。

睡眠を改善することはできないのだろうか。最近というか数年前から睡眠に関する本が色々出ているようだが、やはり極めて大事な事柄に違いない。「睡眠を制する者は人生を制す」くらいの重要性であろう。(この言葉で検索してみたら他にもあったから、同じように考えている人が結構いるのかもしれない)

さてよく言われている通り、睡眠は90分サイクルである(例によって解説はしない)。例えば目覚ましを四時間半後に設定しておくと結構すっきりと目覚めることはできるのだが、その後昼に眠くなってしまう。また睡眠が短いと体力が足りなくなり疲れによって眠くなってしまうこともある。これでは毎日きちんとしたサイクルが作れない。

あと、ずっと困っていることがある。オナニーをしたあとに高い確率で眠ってしまうのである。今年に入ってからはほぼ100パーセントの確率になっている。それに私は普段使い捨てのコンタクトレンズをしているのだが、コンタクトをしながら眠るのは目によくないのである。いわゆるおかず用途のためにモニタ画面を見ていることは多く(ちなみに、眼鏡は持っていない)、眠ってしまうのならせめて終わった後に虚脱感の中でコンタクトレンズを外さなければいけない。これがなかなか難しい。(眼鏡を調達すればいいだけかもしれないが、これからオナニーするぞというときにわざわざコンタクトを外して眼鏡に変えるのも面倒である)

それはそうと、睡眠時間を減らすことに成功した人はいるのだろうか。睡眠時間を減らすよりも、毎日規則正しい確かなサイクルを作ることの方が大事なのかもしれない。やはり睡眠を含んだ生活リズム全般を見直すべきであろう。

2018/02/24

また、やってしまった。今日はほとんどなにもせず、ずっと眠ってしまったのである。私はとりとめのない考えにふけることが好きで、ベッドで布団の中に入りながら様々なことを考える癖があるのだが、だがこれはいいことではない。そのうち眠ってしまうし、眠って起きた後もまたなにかをうつらうつらと考え、なかなか布団からでることができない。そして時間は過ぎていく、という訳だ。こうしてすべてが惰性へと陥っていく。そうした状態を脱するには、布団の中で空想することの快楽より苦痛のほうが勝らないといけない。例えばトイレに行きたくなったり、さすがに疲れきったり空腹になったりするなどである。だが最近自力で脱出する方法が見つかったかもしれない、それは昨日書いたように瞑想をすることである。私がいつもやっているのは薔薇十字の瞑想法なのだが、とりとめのない空想を断ち切り布団の中で薔薇十字を観想しているとそのうち起きようという気になるのである。この方法が常に有効なのかどうかは、まだちょっとわからない。私は如何に自分が駄目かということを知っているので、やはり日々の生活に瞑想は必須なのだろう。だがいつも三日坊主に終わるので、この日記も瞑想日記とかに変えたほうがいいのかもしれない。

2018/02/23

弟とラーメンを食べに行った。 

f:id:glamaje:20180223200643j:plain全部乗せで830円。味は”潤”系といえる。我が県はラーメン王国を自称しているもののこんなローカルなところを紹介してもという感じではあるが……

これからの目標は断捨離のためとりあえずヤフオクで毎日物を出品することである。簡単なようで、自分にとってはこれが非常に難しいのである。なぜかとても、やる気にならない。

いつからかネットで発達障害ADHDといった語をよく目にするようになった。「生きづらさ」の問題が出てきて、それらの事柄も可視化されるようになった、ということなのだろうか。私はかなり集中力がないことに悩んではいるのだが、しかしADHD診断といったものを目にしてみても当てはまるようで完璧には当てはまらない気がする。それは自分でそう思っているだけで、診療に行ったらもしかしたらあっさりADHDと診断されるのかもしれない。

テレビをつけたら元アナウンサーの人が瞑想によって苦境を脱したとかやっていた(名前は忘れてしまった)。確かに瞑想の効果は絶大である。やってみて驚いたのだが、文章を書くのに悩んでいた箇所がすらすらと書けるようになったりするのである。これもかなりの悩みなのだが私は相当な遅筆で、文章を書くときにかなり考え込んでしまいそれが原因で停滞してしまうのである。だが瞑想によって無意識からすらすらと文章が出てくるようになる。
そんな絶大な効果があればなにがあっても毎日やるべきだと思うのだが、しかし集中力のなさが原因で毎日続かないのである。これでは堂々巡りのループだ。

ちなみにこのブログではあんまり考えすぎないようにすぐ文章を打つようにしてできれば10分以内に書くようにしている。