真人間を目指すためのログ

その日したこと、観たもの、読んだもの等の記録

天気の子 数年目の感想

amazonプライムビデオで新海誠の天気の子を見なおした。いやーこれはすずめの戸締りの100倍はいいだろう。ただ本当に惜しい作品だ。他には目をつぶっても最後付近の須賀登場→銃発砲→歌が入る→警察登場→凪登場→空→歌入る→また歌のシークエンスはやはり許しがたい。理由は前に書いたかもしれないがあの最後の場面は帆高が線路の距離を走ったあとに周到に用意され設えられた舞台として作られているから。須賀が待ち構えているのはどう考えても不自然だし出すなら出すで帆高が線路を走っているときに発見する場面を描くべきだった。でもそれは帆高が陽菜のいる場所に向かって走っているところとコンフリクトを起こしてしまうんだよね。帆高は陽菜のいるところに向かう距離を走っていてその隠喩の純粋性が失われるため、だから描けなかったというのはあると思うけど。あとラストの帆高が陽菜さんに会いに行けなかった理由は会うのを躊躇していたからではなく島を出ることを禁止されていたとかにすればよかったのに。エンドクレジットの前から入る歌もいらんよなあ。ここを入れるなら前の歌を削るか、とにかく歌を削ってほしいね 笑 それくらいかなあ。

とここで、ネットにある「考察」を読んでいると須賀の奥さんは天気の巫女だった説なるものを発見した。彼があの廃ビルに現れたのもこの場所を知っていたからだという。確かにそう見做せばあの場面は作品の欠点ではなくなるかもしれない。しかしそれは厳しい。まずあのところで須賀は「探したぜ」といい単に帆高を探してそこにやってきたことを示唆し、続く場面では動揺を見せずに帆高と対峙している。奥さんに所縁のある場所なら警察に問われて突然涙を見せた須賀がもっと感情の起伏を表していないとおかしい。もう一つ、家でやけ酒をのんでいるシーンであるがここでも夏美との話で須賀に動揺はなく「天気の巫女が一人いなくなるだけで天気が良くなるなら俺は歓迎」ということを言っている。この時の画面では須賀がはめている二つの指輪をなでる様子が描かれているが(自分と奥さんの指輪を二つはめている)、これは須賀の奥さんのことを示唆しているのではなく二人の子供である萌花のほうである。萌花は喘息を持っているため雨の日に会うことはできず、須賀にしてみれば天気が良くなって萌花に会えるようになればそれはまあいいんじゃないかということなのだろう。あと新海誠自身は意図していないと答えている。(https://moviewalker.jp/news/article/206272/)

やっぱりあのシークエンスは大変によくないと思うのは須賀の心変わりや帆高の警察への発砲など、観念化された感情の応酬みたいになってしまっていている。感情の劇場が過剰なまでに意図され、何かしら流れを阻害してしまっているというか。きわめつけは最後に凪がまたこれは突然に現れて帆高にお前のせいで姉ちゃんはいなくなったと言われ、そのあとにラッドウィンプスだもんなあ。やはり受け入れるのは厳しい。

しかし今回見たのは5回目くらいだと思うけど、君の名はよりも多く見てしまうのは東京の美術が大変に良いこと。実際にある風景を大きく変えるような美化もなく現実感があるんだよなあ。

今まで気づかずに勘違いをしていたことがあった。みんなが晴れの世界を望んだから陽菜さんはいなくなってしまったんだ!というのが前はよくわからなくて、陽菜が授かった能力でビジネスをしてなんか悪いところがあるのかなあ、陽菜と凪の境遇は貧困とされているし、あとから皆が晴れの日を望んだのが悪いとされるのは理不尽じゃない?と。でも陽菜の能力は異常気象の続く天気を治療するためで、なんらポジティブなものではなかったのである。作中で天気の巫女は人柱であるとはっきり言われていますが、私は陽菜の能力はギフテッドのようなものだと思ってしまっていたためにそこを否定せんでもという感じだったんだよね。人間の活動により異常気象が起こるようになったという前提がまずあって、その天気を治療するための存在として陽菜は最初から人柱としての役割しか負わされていなかったのだった。あれは文明論的なもので、皆が便利な世界を望んだために陽菜のような人間が犠牲になったという観点が描写されているのはわかりますが、もう昔の自分が何を考えていたのか忘れてしまったもののいまいち整合性がよくわからなかったんだよね。
最後は狂った世界でも陽菜さんがいる世界がいいという願いが叶えられる。作中では世界なんて元々狂っていたという台詞が三回くらいあり(住職、須賀、滝の祖母)、最後の「大丈夫」によってこの狂った世界でもなんとかやっていけるはず、という主張がされているように見える(杉田俊介はその点を無責任だと批判している)。だけどあれは作中でミスリードされているもので、最後の帆高はそうじゃなくてやっぱり自分たちが世界を変えてしまった、と言っているんだよね。つまり、人間の活動によって気象が変動してしまったという前提も確かだし(帆高は人新生の本を持っている)、さらには陽菜さんを助けたことにより雨が降り続く世界になったことも確かだと。しかし天気の巫女・人柱の役割を拒否するというのはどういうことなのか。陽菜を助けたことで以前のようにたまに異常気象が起こる世界が続くというのならわかるが、いつまでも雨が降り続く世界になったというのは明らかに過剰である。実は陽菜さんを助けたことで狂った世界になってしまったのではなく、あの降り続く雨はいわば原状回復のために降っているのではないか。犠牲を生む晴れの世界(=文明)が否定され、ノアの洪水のようなもので世界を白紙状態に戻し、ついにはあの空の上と同じ草原が続く世界になってしまうのではないかと。とだいたいここらへんでいいかなあ。

ChatGPTくんに何かの作品について尋ねてその実際の作品との違いを楽しむということをやっている。天気の子もやってみたので載せておく。

これで映画化してほしい(笑)