真人間を目指すためのログ

その日したこと、観たもの、読んだもの等の記録

つぶやき(2019/3/16から)

20190421
自動車免許を取ってまだ一年たっていない初心者のころ一度アクセルとブレーキを踏み間違えたことがある。いきなり車が飛び出して怖かった。さてアクセルとブレーキの踏み間違いで起こる事故だが、AT車では足を空中に置いてはいけないのである。足を空中に浮かせた状態だと、次にアクセルを踏むか、ブレーキを踏むかの二択が発生することになる。この二択を発生させてはいけない。つまり、現在アクセルを踏んでいる状態で次にブレーキを踏むか、ブレーキを踏んでいる状態で次にアクセルを踏むか、のどちらかしかない状態にするのである。そうすれば踏み間違いは起こらない、というか自然に運転しているとそうなっているはずである。
ATはクリープ現象で自然と前に進むがこのクリープ現象の状態で駐車するようなとき、足はブレーキの上に乗ってはいるが、まだ踏んでいない状態にあるはずである。とにかく足を空中でアクセルとブレーキの間で迷わせて、浮かせておいてはいけない。止まるときは足を移動させず、ただそのままブレーキを踏むのである。アクセルを踏んでいる走行中に止まるときは、足をブレーキペダルに移動させてブレーキペダルを踏む。いずれにせよ二択は起こらない。
とにかくクリープ現象のときに次にアクセルを踏むのかブレーキを踏むのかで迷い、足を空中(またはその下のマットとかに)に置かないことが重要だ。以上のことは、運転に慣れた人なら自然とそうなっているとは思うが。
しかし不思議なのは、コンビニに突っ込んでいる車の画像を見ると前側から突っ込んでいることが多い点だ。うちの近所のウエルシアでも店舗の入り口に車が突っ込む事故が起きていた。前側から突っ込むのは一体どういう状態なのだろうか。やはり上に書いた通り、アクセルから一旦足を離してしまった状態での踏み間違いなのだろうか。もしかしたら駐車しようとするときかなりスピードが落ちている状態から止まろうとして、アクセルから足を離してブレーキ側に移動する際に、そのままブレーキを踏まず一旦足を空中や床に置いて遊ばせてしまい、その後に踏み間違えてしまうのだろうか。
一度アクセルとブレーキを踏み間違えてもその後ブレーキを踏めば車は当然止まるはずだが、度々言われる通り運転者はブレーキを踏んでいるつもりでもそれが実はアクセルで、ブレーキだと思って更に強く踏み込んでしまうということなのだろう。これを防ぐには最近の自動車に搭載されている自動ブレーキシステムくらいしかないのだろうな。
それにしても最初の段階での踏み間違いというのがあるはずで、とにかく書いたように右足をブレーキペダルの上かアクセルペダルの上以外のところに置くな、というのは浸透してもいい気がする。完全に自己分析だけど。

何か普段もうちょっと面白い内容の考え事があるような気がするのだけど、浮かんでは消えていく泡みたいなもので、何の言葉にすることもなく消えていく。

20190416

投稿した文章を読んでみたらいつも以上に混乱している気がする。しかし面倒すぎる。誤字一つ直すのもめんどい。もはや病気の域であろう。

20190331

確か図書館にあった集英社 世界文学大事典のパウル・ツェランの項にその言葉が書かれてて執筆したのが丘沢静也だったんだわ要確認だわ

アドルノの言葉「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」をずっと「アウシュヴィッツのあと"ドイツ語"で詩を書くことは野蛮である」というふうに覚えててなかなか修正されなかった全然意味違うじゃねーか。実際に最初にそう読んで知ったのだがたぶん丘沢静也のせいだわ最悪だわ

20190330

メモ ペレアス ワーグナー

人に何かを伝えたい、という思いが全然ない。

言葉で全然感情と思考を伝えることができない。

輸入楽譜のスコアあったけど一万円近くてさすがに手が出ない。5000円くらいなら……

おそらく地図を見るのが好きなのも同じ理由なのだろうと気づいた。

楽譜を見ているのは好きで、その理由は抽象的な図形から実際に感覚的な音楽が発生するというところなのだろう。

クラスターでピアノをぶっ叩くのとアルペジオの奔流にときめきを感じざるを得ない。

グリーグ以上の評価が与えられるのは当然。

現代ピアノ協奏曲の最高傑作。と思ったら作曲が1969年で今年で半世紀が経つとか信じられない

初めてエイノユハニ・ラウタヴァーラEinojuhani Rautavaaraのピアノ協奏曲第1番の楽譜を見て震えた。

20190328

なんの考えも書けない、どうでもいいんじゃないか、という感情が支配している。

ポルノグラフィーとコマーシャルはフィクションというジャンルを考察する上で結構やっかいなのではないか。

大きな意味ではフィクションといえるだろう。だからややこしい

「表現」されたものはすべて同じ意味の「フィクション」なのか。そう考えている人は多そうだ。

もちろん私はそれはおかしい、という考えだが、どうおかしいのか。

すべてを「表現」の名で一緒くたにする違和感はずっとあって小説映画などのフィクション・ポルノグラフィー・コマーシャル・街頭のヘイトスピーチまでもが何の見境もなく論じられている。

 

パルジファル」の原作改変とカップリング創設がひどい。

いや詳しくはないんだけどそうだと思ってる。シェイクスピア

ワーグナーは二次創作作家であるということは言っていきたい。

モノたちの宇宙も買ってしまったものの、読まずに売ろうかなと思っている。

四方対象は一応読んだが、amazonのレビューにある通りあまり魅力的には思えなかった。

いや別に思い出せるのだが、もうその気が無くなっている。

何か考察したいことがあったはずなのに、いつものようにもう忘れている。

だが身に付けた技術は裏切らないと信じている。

その通りだと思う。

知識って最終的には虚しいよおじさん「知識って最終的には虚しいよ」

沈思黙考したい

みんな色々自分の好きなテーマについて語るけど、そんな気が全然起きないのは感情が死んでしまったせいなのだろうか。

電波男」は本田透の実存の書として読んだ。

20190324

ヘーゲルの大論理学を見たら超絶難解で笑った。あれは精神現象学がましに見えるレベル

20190323

続きはあとで書きます

グラスリップがわからなかったというのはそういったこととは違う、そもそも何を表現したいかさっぱりわからないという人が多かったようだけど、私はわからないということがよくわからなかった

そもそも作品について何を表現したいか全くわからなかったという感想を持った人に説明して理解してもらうことはできるのだろうか。例えばヌーヴォーロマンのような小説が好きだと言った人がいて、なるほどそういった作品が好きな人がいることは理解できる、というのは私はヌーヴォーロマンな小説を読み通せないにしてもがだいたいどんなことを表現しようとしているかは把握している、それだからと思うけど

いや途中までは面白かった。異次元空間(?)での歌もいいし

もうあまり記憶がないけど、申し訳ないけどピンドラアンチなので笑)

輪るピングドラムの話で最後に林檎を分け合ったのはどこかにたどり着いたことの象徴とか解釈が割れているみたいな話があったがそもそもそれは象徴みたいな表現で誤魔化されていいのだろうか具体的に描くべきではという疑問がある。

しがないさんのツイキャスグラスリップの話から、しがないさんでもグラスリップゆゆ式以上の"無"だったらしい。

一部のものに過集中することはできるのだが、そうでないとさっぱり感情移入ができず注意を保つことができないというのは昔からだった。

もはやアニメや映画もそうで新しいものを見るのが極めて難しい状態が続いている。なんというか場面に感応することができなくなっている。

最近漫画が読めないという子供が殖えたといった話を聞くが、私もどうしてそうなのだろうかと思っている。

漫画は本当に苦手でどんなものを読んでもだいたい何も頭に入って来ない。さすがに藤子F不二雄とか手塚治虫とかは読めるがあとスラムダンクとか岩明均とか昔触れたことがあるものしか読めない気がする。

さてここ最近(一年前?くらい)になって読んだナウシカだが全くといって理解できなかった。思想が難解だったとかそういったことではなく漫画を読むのがとても苦手で、そもそもどんな場面が展開されているのかほんの一ページも理解できなかったのである。

中学生のとき「ナウシカは実は難解で、映画はほんの一部だけの話」といったことを聞き難解なものに興味を持った。そのときはまだどういったものが難解とされるか全く把握していなかったのである。

単に未熟な表現のせいでよくわからなくなっている作品ももちろんある。

たとえばフィネガンズ・ウェイクのような

何が言いたいのかよくわからなかったと言われるような作品でも、(小説であれば)全部を読み通すことなくても作品のだいたいの理念を把握するのはそう難しいことではない。(理解できた、とは言えないにしても)

作品における難解さというのは一体なんだろう。

面白くなかったと言われると本当にそうか?自分にとってはどうなんだろうと検証したい気がしてくるせいだろう。

逆に面白くなかったという感想も面白かったという感想以上に興味を持ってしまうかもしれない。

何々の本面白かったという一言でもそれに興味を持つことがあるから別に無理して感想とか書かなくてもいいんだよな。

あずまんのゆるく考える買ってしまった。

メイヤスーは面白かった。めちゃくちゃ頭疲れたが

だめだ、四方対象はよーわからん。売る。

20190321

夢日記はたった一行でもいいから毎日書くことが大切だな。

それでいいと思うしかない。

そして、読み返す気はほとんど起こらない。

小説も今は「ディスコ探偵水曜日」をちびちびと読んでいるものの舞城の「土か煙か食い物」の内容を思い返してみてもほとんど思い出せないし「好き好き大好き超愛してる」にしたって大変いい小説だったがやはり場面を思い出せない。

ツァラトゥストラを読んだときは結構興奮したけどもう一度読み返す気はまったくない。

プラトンとか結構読んだけどクラテュロスとかパイドロスとかいった名前のほかは本当に綺麗さっぱり忘れたな。

今は自分の中で哲学リバイバルが来ているが、ほとんどすべて忘れるだろう。

読書ノートを取るにしたってどうせ忘れて読み返さないんだし意味がない。

本当に読んだ端から忘れていくな。確かに読書なんかして意味があるのだろうかと思ってしまうが、別に忘れてもいいのである。

 

20190319

読んだ本はすぐに売ってしまおう。宵越しの本は持たないヒッピースタイルでいこう。

有限性の後で やっと読み終わった。第三章が核心部分でここを読むのに三日かかった。四方対象とモノたちの宇宙注文した。

 

 

フィクションやファンタジーへの強い興味は夢を明晰化するだろう。だが、私はまさにその感情がなくなり、夢内容はほとんど捕らえられないものになっていったのである。

明晰夢のためには  明晰夢を見るためには大変いい方法がある。恋愛である。感情のときめきは夢を明晰化させるのである。夢はときめき、感情と関係する。しかし、今すぐに恋愛をするというのは難しい。ので、別の方法を考える必要がある。

夢を憶えておくために 夢日記を続けるのは難しい。夢日記を書いていても時間がたてば、すべては思い出せないものに変わる。夢の映像を言語で写し取ることは困難であり、そのため夢の正確な記述をあきらめ、自由な言語によって想像を拡張することを試みる。必要なのは正確性ではなく興味を持つための方法。

薬物使用とかほとんど誰も真剣には悪いと思っていないのにセンセーショナルに報道されるが故に悪いということになり自粛が進むという気がする。

絵も昔よりは結構うまくなったな(自己評価)

資料フォルダに後背位のエロ画像注入してる

俺もID001のように筋トレしてカラオケ動画あげるか

胸筋を鍛えるためにはダンベルカールだけではだめで、フラットベンチを買って別の種目をやる必要があるようだ。

有限性の後で 第三章 内容が濃密でライオン仮面のあとにオシシ仮面が出て、さらにオカメ仮面が登場するというふうに議論が広げられる。